クレヨンしんちゃん
嵐を呼ぶ
モーレツ!オトナ帝国の逆襲
監督:原恵一
原作:臼井儀人
出演
矢島晶子
ならはしみき
藤原啓治
こおろぎさとみ
公開:2001年4月21日
製作国:日本
《あまりに有名な作品》
日本の劇場アニメーションとして、その枠を越えて、あまりに高評価であまりに沢山の人が語っている作品なので、何で今更?って感じだけども。
実は年1回は必ずこの映画観てたんだけど、今年、4月に当時の野原ひろし役を演じた声優、藤原啓治さんが亡くなったのが自分の中でショック過ぎて観ることができなくなってしまってた。
普通、声優さんがなくなったらその声優さんの声を聴きたくて、代表作観たりするんだけど、今回はちょっと別。あまりに思い入れの強過ぎる声優さんで、もう新しく声を聴くことはないんだ、ということが受け入れられなかったから。実際他のアニメでも藤原啓治さんの声が聞こえてくるとなんとなく悲しい気持ちになってたし、この作品に関してはまともに観られないと思ったから。
でも、そんなこと言ってたらアニメ相当な数観られなくなるし、生前の作品を楽しんで、キャラクターを好きでいることが1番良いことだよなぁ、とやっと思えてきたんで久々に観た。やっぱり名作中の名作。
ストーリーについては省く。あまりに有名なんで。
《プロットは完全にホラー》
ご存知日本一有名な春日部の幼稚園児とその家族のドタバタコメディ...の劇場版。『映画版は大人向け』っていうイメージはこの作品からなのかな?ファミリー向けアニメの皮を被ってるけど、確かに大勢の大人が観賞後目を腫らして子供の手を引いて帰るタイプの映画だと思う。じゃあ子供達にとっては?
この映画のストーリーって、前半は子供にとって完全にホラーだと思う。
いつも賑やかな野原家一家のヒロシとミサエが懐かしさに囚われてしんのすけを捨てて子供時代に帰っていく。公開当時の子供達にとっては相当怖かったんじゃなかろーか?
やたらリアルで(クレヨンしんちゃんのポップな絵柄にこれは絶対確信犯だろ)不気味な塔を大人たちがみんなありがたがって、そのシーンを観ている親たちもスクリーンに向かって目を輝かせて...正直この映画を観に連れて行かれた子供達は最初だけみたら泣くでしょw
んで、話が進むと赤ちゃんのひまわりさえほったらかして、ヒロシとミサエはどんどん子供に戻っていく。今の言葉で言えば完全にネグレクト。
あくまでギャグ漫画だから当時は気づかなかったけど、国民総ネグレクト化の描写は子供視点で観ると相当怖い。仮に実写にしたらこれ子供達泣き叫ぶんじゃ...。
まだ、『過去』『懐かしさ』を理解できないちびっ子には理解するのむずかしいだろうしなぁ。
劇中で風間くんが「懐かしいってそんなに良い事?」って疑問をぼやいてたし。
それでも土台がギャグ漫画の「クレヨンしんちゃん」だから巧妙に怖さがマイルドにされてる。だから子供達もギリギリのバランスで最後のあのシーンまで観ることができる。よくできてる。
《懐かしさとは》
作中でヒロシとミサエは、『懐かしい匂い』に惹かれて20世紀博から抜け出せなくなってしまう。自分自身は昭和生まれではあるけど、育った時代は平成なので、オート三輪を見た事とか殆どないし、昭和の活気ある風景ってのは直接体験した世代じゃない。
でも不思議なもんで『匂い』と言われると確かに『懐かしい匂い』って感覚的にわかる気がする。うまく表現できないけど視覚より直感的に感じる懐かしさ。同じく昭和をテーマにした「always 3丁目の夕陽」や「20世紀少年」よりも個人的にはすっと理解できた気がする。
歳をとって、自分自身の過去や思い出が増えるほど、どうしようもなくこの感覚は強くなってくる。だからこそこの映画は回数を重ねる毎により感情を重ねて観てしまう。
《野原ひろしについて》
この作品の半分は野原ひろしの立場で観客が観るように作られている。これって本来の「クレヨンしんちゃん」から明らかに外れてる事だから監督も相当覚悟持って作ったんじゃないかな?
親子で観る映画なので、お父さんお母さんと一緒に観にきた子供たちに、『自分だけのものだと思ってた親が、そうではなかったんだ』と気付かせてしまうかも知れない。『自分の親も、自分のために色々なものを捨てたり諦めたりしてきたのかもしれない』と思わせてしまう時点で家族向けのアニメと言って良いのか難しいところ。
逆に大人、というか親にとっては、やっぱりヒロシの涙と回想が人ごととは思えない。
このあまりに有名なシーン。このシーンが何であんなに感動してしまうのか。それはどんな大人も今を生きていくために捨ててきたもの、変わってしまったものがあるからだと思う。そして、それでもひろしが息子の呼びかけに応えて、子供と生きる未来を選ぶことに心が震わさせるんだと思う。
この少し後のシーンで、靴の匂いを一生懸命嗅いでギャグっぽく描かれてるけど、懐かしい街並みから抜け出す時にひろしは「懐かしくて頭がおかしくなっちまいそうなんだよ!!」て叫んでいる場面がある。
それほどに世の中の野原ひろしたちにとって思い出って捨てがたいものだし帰りたい場所である。
だからこそ、
「とうちゃん、おらがわかる?」
「あぁ、あぁ」
この短いやりとりがとてつもなく重い意味を持って響いてくる。
このただの嗚咽のシーンだけで自分は藤原啓治さんを大好きになった。
《20世紀から21世紀へ》
そして物語の終盤、野原一家が一致団結して敵組織『イエスタデイ・ワンスモア』に立ち向かっていく。
よくここでのひろしの「オレの人生はつまらなくなんかない!家族のいる幸せを、あんたたちにもわけてやりたいくらいだぜ!」って言う名言が取り上げられる。間違いなく最高に素敵なワンシーン。
でも、これを最後に物語はしんのすけが主人公に戻ってくる。同じノスタルジーをテーマに据えた他の作品とは一線を画す場面。
しんちゃんが、全力疾走する姿。
ひたすら走る。鼻血垂らして傷だらけになってヘトヘトになってただひたすら走る。この走っているシーン、次第にしんちゃん以外の情報を全部カットして、その姿だけをひたすら描くようになる。このシーンを通して子供の観客は素直にしんのすけを応援して、大人の観客は『大人帝国』から自分の現実に帰らなきゃいけないことを悟る。過去を持たず、懐かしさも持たないただの幼稚園児のかけっこに涙する映画ってこれ以外ないだろう。
そして、映画のキャッチフレーズのごとく未来を取り返すんだけど、その理由は...
「オラ、おとなになりたいから」
そう。子供の未来とは大人になること。それを真っ直ぐに子供に戻りたい大人に向けて放つ。最期はシンプルな子供の願いに大人帝国は崩壊するのである。
思い出ってのは、全ての人に積み重なる大切なもの。そしてもう戻ってこないもの。それを追いかけるケンとチャコを否定できる大人はそういない。でも、過去を持たず、未来しかないしんのすけにとっては、未来を捨ててでも思い出にすがる2人は紛れもない『敵』。そんな感じには描写してないけどね。
この映画が公開されたのは2001年。子供達は平成生まれ。大人の多くは昭和生まれだった。
昭和から平成へ、20世紀から21世紀へ。そして大人から子供へ。いつかは渡さなければならないもの、大切なものに気付かせてくれるほんとうにいい作品だと思う。
《個人的な考え》
こっから完璧に自分個人の考えなので、否定されてもしゃあないことなんだけど、この作品観てると、神山健治監督の『東のエデン』を何故か思い浮かべてしまうんだよね。
↑これもその内書いてみようかな。
『大人帝国』はケンとチャコが過去に固執して未来を否定する話で、最終的には未来を求める主人公に敗れる物語。
一方『東のエデン』は、昭和を否定された人間が、若い世代に「じゃあどうすりゃよかったの?」と投げかける物語。
どちらも古い世代と新しい世代の隔たりを取り扱った作品。
ぜんっぜん中身は違うんだけど、ニート世代の若者が老人に対して「じゃあ一緒に考えようよ」って形で終わる結末は、なんだかしんのすけと『イエスタデイ・ワンスモア』のその後を描いてるような気がしてしまう。いや、全然違うけども。
長くなったけど、昭和から平成へ(逆かも)のプレゼントのような作品の本作。令和になって一年を過ぎた今、改めて観るのもいいかも。
そして、平成は良かった...などとぼやく老人にならんようにせねば。