「death stranding」
主演:ノーマン・リーダス
監督:小島秀夫
製作国:日本
発売:2019年
今回の文章はちと掟破り。映画ではなくゲーム。別に固定読者も居ないしルールも何も無いんだけど、本来は映画の感想のみ。今回だけ例外。
というのも、今作は映画の表現手法と俳優をふんだんに盛り込んでる上で、ゲームプレイを成立させていて、どちらの面でも感想を述べるには良い作品だから。あと自分がわりと小島信者なところがあるから。(これ言うと荒れるからあんまり言いたくはない)
《ゲームとしての表現》
このゲームに対する評価として、自分が敬愛する押井守監督が「映画は(ゲームに)勝てない」と言っていた。んなこたぁねぇだろう、とも思うけど、部分的には確かにもうそれに近い状況は最近チラホラ目にするようになった。
かつて、ゲーム界が映画に少しでも近づけるためにビジュアル面の進化に躍起になっていた時期があった。いわゆるムービーゲーと揶揄されるようなゲームね。それが現在では、部分的ではあるけど徐々に逆転現象が起きている。
全編一人称視点の明らかにFPSをイメージした映画「HARDCORE」みたいにビジュアル面や体感的な面でゲームに寄せた映画が作られたり。
海外ドラマではアドベンチャーゲームみたいに主人公の行動を視聴者が選択する実験的なドラマが作られたり。
↑海外ドラマ「バンダースナッチ」。選択肢を選ぶことで物語の展開が変わるインタラクティブドラマ。
映画とゲーム、両者の違いはどんどん薄れてきている。
勿論映画には映画にしか出来ないことが多々ある。
自分が映画好きなのは、作者の思想だったり主張だったり、表現したいものが鑑賞って手段を通して伝わってくるから。で、時折人生観そのものを変えるような作品に出会えるから。
そんななかで今作は、ビジュアル面だけ観ると、現時点の技術では最高レベルで実写映画に近づけているムービーライクなゲームに見える。
...が、その実態は、製作陣が「これは映画ではなくゲームなんだ」ってことにとても自覚的な、間違いなくゲームとして作られたゲームである(我ながら変な表現)。
《ビジュアルが持つ意味》
まず、ビジュアル面について。これに関してはもう見て!としか言いようがない。
↑主人公:サム・ポーター・ブリッジズ
うん、完全にノーマン・リーダスですよ。ウォーキング・デッドのダリルですよ。荒廃したアメリカをバイクで走るっつったらこの人かトム・ハーディか、ってくらいしっくりきますわ!
そして、
↑裏の主人公的キャラ:クリフォード・アンガー
コチラはマッツですよ、マッツ・ミケルセン!!北欧の至宝ですよ。このブログでも何度か紹介してる大好きな俳優。
この2人がキャスティングされてる時点でもう半分俺のためのキャスティングかと!!
脇役も含めてなんと贅沢なことか。興味ない人は知らないかも知れんが、ノーマンについてはウォーキング・デッド見たことある人なら言わずもがな。
ハリウッド映画で言ったらマッツ・ミケルセンはスター・ウォーズのローグ・ワンではキーパーソン役で出てるし、ヒロインのレア・セドゥは前作に引き続き来年公開の新作007のボンドガールだし、ゲームじゃなくて映画としても豪華なキャスト達。最初にキャスト公開された時には正直自分も「映画でやれ!」っ思った。
と、ここまでなら他のゲームでも似たようなことやってんじゃん!て思う人もいるかと思う。例の「キムタクが如く」もそう。○○○が如くシリーズも実在俳優大勢使ってて、特にここ最近の作品はホントに本人と見分けがつかないクオリティになってると思う。
ただ、あのシリーズ観てまず感じるのが『作り物感』。
何か動くと違和感感じるんだよね。会話してても棒立ちだったり、プレイ中もいかにも「機械制御されてます!」って動きだったり...。キムタクが声出して喋ってても何かあやつり人形感が出てしまう。映画として観ると何か違うと感じてしまう。最新作の予告見ても人形感は抜けなかった。そもそも風景が...ね...。
あ、だからってシリーズがダメって訳じゃないよ。ゲームとして観たら外連味たっぷりのアクションだとか、ゲームだから実際には有り得ない派手なこともできるし、やれば楽しくプレイできると思う。
それに対して本作は、撮影に関しては本当に映画と同じ撮り方。
↑撮影風景。全身に球体を付けてるのは全ての表情や動きを読み取るため。
パフォーマンスキャプチャで、俳優の表情だけでなく動きも含めて全ての演技を収録する。
アバターや猿の惑星新3部作、アベンジャーズとかでも行われる映画の手法。俳優の演技全体をデジタルとして再現させるので、動きもそのまんま。
だから、たとえシーンによってサムが背中しか見えなくても、ちゃんとノーマン・リーダスの演技になってる。こういう撮影って、「ココにカメラがありますよ」っていうダミーも用意してて、俳優が実際に役に入って演技するから、キャラクターの演技がちゃんと生きている。これって実際結構な手間がかかってると思う。
ちなみに他のゲームの世界でも「アンチャーテッド」とか「ラストオブアス」とかで同じことはやってる。けど、残念ながら日本国内の作品でパフォーマンスも有名俳優が生の演技でやってるのはあまりないかな。
ここまで書くと「やっぱり映画を真似て作ったただのムービーゲーじゃん!って思うかも知れない。だけど、いざゲームをプレイしてみると、ちょっとした仕草さえも重要な要素をもってることに気づく。
これだけのクオリティのビジュアルを持っていてゲームである意味。それは、プレイした人にしかなかなか感じられないこのゲーム独特のプレイ感覚とシステムにあるように思う。
《システムとゲームエンジン》
これだけのクオリティのビジュアルを作り上げることができたのは「ホライゾン・ゼロ・ドーン」を作り上げたゲリラゲームズのDECIMAエンジンの賜物である。小島監督が訪問した際に契約も結んでないのにソースコードを渡したっていう、企業としてあるまじき...いや、クリエイターとしての素敵な心意気で実現したコラボらしい。
このエンジンが描く自然と人物が作品を形作ってるわけだけど、このフォトリアルな描画と今作の志向のバランスがめっちゃ良かった。
このゲームは、主人公「サム・ポーター・ブリッジズ」が、荒廃した北米大陸を横断しながら配達人として様々な荷物を背負って歩く、というのが物語の核となっている。
荒野を途中途中で配送ステーションのプライベートルームを利用して休みながら進んでいくんだけど、この休憩がなかなかのキモ。
↑こんな感じの部屋で休む(システム的にはセーブと回復、荷物や情報の整理などを行う)。
ここで、シャワーを浴びたり...
モンスターエナジーを飲んだり...
色んな旅支度をしていく(勿論ちゃんとシステム上のメリットもあるから度々利用することになる)んだけど、ここも全てノーマンの演技をキャプチャーしてる。『立つ』『座る』『鏡を見る』といった仕草や表情も全て本物。これがここまでリアルな描写で表現されるとどうなるか...。
主人公サム(というかノーマン)とホントに旅をしてる気分になるんだよね。ここが多分一番大事。
基本一人旅で、主人公は自分の分身なんだけど、この休憩をしてると、不思議とノーマンと一緒に旅をしてる気分になる。動きも表情もホントにノーマン・リーダスそのものだからなおさらそう感じる。
次の目的地までどんなルートを通るか、装備は何を準備していくか、など普段バイクに乗る自分からするとツーリングの準備してる時の感覚に近い感じがする。
んで、いざ旅を始めると...
見渡す限りこんな景色を一人でひたすら歩く。
重量の概念があるので、一度に運べる量に限界があるし、バランスを崩すとすぐに転んで荷物に傷をつけてしまうので、最初は歩くことそのものに苦労する。
その点で言うとこのゲーム、主人公の挙動さえ可能な限りリアルに作られてるから、他のゲームに比べると非常に不便wwアサシンクリードみたいな超人的なな身体能力も殆どない。なので、稼ぎ目的以外ではホントにバトルを避けたくなる。だから初めて行く場所では自然とゆっくり歩いて移動することになる。
そうやって苦労した先に目的地にたどり着く頃の景色がこんな感じ。
遠くに建造物が見えはじめて大きな移動が終わる時、ホントに絶妙なタイミングで楽曲が流れてくる。
このときの演出がもう...ね。わざわざ曲名まで表示してあまりに狙い過ぎなタイミングで音楽が流れてくるんだけど、この瞬間がこれでもかってくらい映画的な演出なのに、ゲームでしか味わえない不思議な感覚に包まれて、恥ずかしい話泣きそうになる。
それは楽曲提供してるLOW ROAR とかSILENT POETSの曲がどれも良い曲ばかりだからだけではない。
自分は音楽が聞こえはじめたら自然と画面をキャラクターの背後に向けてしまう。というのもA地点からB地点への目的地そのものは変わらないものの、プレイによって通る道は千差万別。ここがゲームならではで、振り返ると自分が色々考えながら通ってきた道を見ることが出来る。
そして前を向くと到着予定地が近づいてくる。旅行の終わりの時のような何とも言えない寂しさすら感じる。
過剰なくらいの人物と風景のリアルさへのこだわりは多分この感覚を味わせたいがためのものなんだろう。
ゲームならではの『達成感』や「没入感』を強くする為のツールとして、映画の手法を取り入れる。そんな狙いがうまく機能してるなぁと思う。
長くなったので、いったん終了。
次にシナリオ面とシステム面の感想を。
映画と違ってこちら側からの働きかけがある分ゲームの感想って真面目に書くと大変。